特殊な事情がない限り、英国の逮捕勾留期限は24時間です。警察は、勾留期限が切れる24時間後には私を正式に送検するか、あるいは正式に釈放するかを決定しなければならなりません。私が警察から、海外旅行を含む完全に自由な行動を保障されていた事は既に述べました。しかし、令状も証拠も何もない異例だらけの状況であったとは言え、一応私は正式に逮捕された訳ですから、その私を直ぐに釈放してしまっては警察としても誤認逮捕の非を認めた事になり、その後の私の態度如何によっては、警察内部の責任問題に発展し兼ねない状況でした。その当時リンカーン州警察は既に、内務省から管内のある警察署長の停職を要求されると言う圧力に晒されていましたから、私がここで少々強引にゴネたら、外務省を巻き込んだ厄介な問題になっていたでしょう。従って言わば一種の紳士協定として、警察は私に完全な行動の自由を無条件に保障し、代わりに私は相互に都合の良い時に管轄署に出向き、彼らの事情聴取に応じている時間の合計が24時間に達するまでは、彼等の捜査に協力する形で情報及び資料の提供を行なったのです。
彼等が本気で詐欺を疑っていたのは2回目の会見まででした。2005年12月、正式に不起訴決定されるまで私は回数にして合計6回(時間にして累計22時間)、警察及びSFOとの会見に応じましたが、そのうち3回は日本に滞在している時であったため自費で英国まで戻りました。また私は「詐欺共謀」という刑事容疑で逮捕されていたため、国費で優秀な弁護士を付ける権利がありました。そこで弁護士の同行を依頼する事も一時は考えました。しかし英国の弁護士は依頼人の防御に過剰なまでに熱心で、警察の質問には一々異議を差し挟む傾向が強いため、SFOや警察が興味を持った事は何でも率直に質問できるよう、私にはその権利があるにも拘らず弁護士は敢えて一度も同行しませんでした。また私が提供した情報や資料は相当量ありましたが、それらを突合、検証するためには当然ある程度の時間が掛かります。そこで、与えられた24時間の勾留時間を、彼等が最大限有効に使えるようにするため、会見は時間をおいて何回に分けても良い事をこちらから申し出ました。更に限られた24時間を無駄なく使うため、通訳も省くなど、絶えず友好的な雰囲気の中で協力を続けたのです。(通訳を入れれば最低でも時間は二倍掛かり、彼らは実質12時間しか与えられなかった事になります。)こう言う時間の掛かる事を平然とやっていたために、私の逮捕期間は書類上平成16年2月から平成17年12月までの22ヶ月間にもあるように見えるのですが、実際に私がSFOや警察と向き合って話をしていたのは、累計で22時間に過ぎません。但し彼らがこの22ヶ月間、ずっと操作や検証を続けていた事は言うまでもありません。
前にも述べましたが、私は以前から日本の倉庫で保全している本件の関係文書(投資家明細、投資申込書のコピー、計算書のコピー、会社の経理書類、人事関係書類、法務関係書類、本支社間の連絡、本社からの通達など、アジャン・ドール倶楽部が行っていた業務に関する全文書記録)を専門家が精査し、それをインペリアルの英国本社及びグレナダから押収した文書と比較突合すれば、誰の主張に矛盾があるのかがはっきりする筈であると思い、SFOに対しては2003年7月以来来日を要請し続けてきたのですが、2005年10月になってようやく、SFOから一人の法務官を含む4名の調査チームが来日しました。またこのときは警視庁及び千葉県警からも予め協力要請がありました。来日した調査チームは日本語、英語の全ての文書を英国大使館に一旦持ち込み、コピーを取った上で英国に持ち帰りましたが、オリジナルの文書は未だに私が千葉県内の倉庫で保管しています。この来日期間中に彼等は日本人投資家数名とも会っています。